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クリエイター名  天堂犬丸
サンプル

「桜の花の咲く頃に」

さわわ――、さわわ――、さわわ――
 そよ風に誘われて、桜の木の枝が揺れている。木の枝が揺れる度、無数の花びらが薄紅
色の雪のように音もなく地に舞い落ちていく。まるで永遠に止まることのない時の流れを
無言のうちに物語るかのように。
 あれは僕がまだ小学生だった頃の話だ。
 当時僕が通っていた小学校の裏山に、小さな神社があった。
 ママや先生達はなぜかあまり近寄ってはいけないといっていたが、荒れ果てていつも人
気のないこの神社は、幼い頃の僕たちにとって格好の遊び場となっていた。
 神社の境内にはたくさんの桜が植えられていて、春ともなれば境内全体が桜の花に包ま
れたようになって、子供心にも見惚れてしまうくらい、それはそれは見事な光景だった。
「みっちゃーん、まあくゥーん、どこにいるのー」
 その日、僕は特に仲のよかった友達二人と一緒にその神社でかくれんぼをしていた。
 鬼になった僕は、みっちゃんとまあくんの姿を求めて境内の中を探し回ったが、いつも
は簡単に見つかるのになぜかその日に限ってはなかなか見つからず、いつしか僕は大声で
二人の名を呼びながら、境内の中だけでなく、神社の裏手の林の中へと知らず知らずのう
ちに足を踏み入れていった。
「みっちゃーん! まあくゥーん! もういい加減出てきてよォ! ねえったらァ! 」
 半べそをかきつつ二人の姿を求めて林の間を探し回っていたその時、十メートルほど離
れたところに立っている一本の大きな桜の木の陰に、何か人影らしきものがいるのが目に
留まった。
 ――あっ、いた!
 思わず叫び声を上げて駆け寄ろうとして、僕はその場に立ちすくんだ。
 そこにいたのはみっちゃんでもまあくんでもなかった。
 大きな桜の木の、そのねじくれた太い幹の陰に隠れるようにして、二人の男女が絡み合
うように立っていたのだ。
 一人はグレーのスーツを着た背の高いサラリーマン風の男。顔は背中をこちらに向けて
いるので見えない。
 もう一人は黒っぽい制服を着た女子高生らしき若い女。こちらも男の首筋に顔を埋めて
いて顔は見えない。
 二人は満開の桜の下、まるで二匹の蛇のように互いに身体を絡み合わせたまま、身動き
もせずしっかりと抱き締め合っていた。
 僕はその様子をただ声もなく見つめたまま、じっと立ち尽くしていた。
 男と女が抱き合っている。それが何を意味するのかわからないほど当時の僕は子供では
なかった。
 けれど、初めて見るにはあまりにも妖艶で濃密なその光景に、僕の頭の中は真っ白にな
ってしまい何も考えられなくなってしまった。
 そうやってどのくらいの間そこに突っ立っていただろうか。とても長い時間のようでも
あり、あるいはほんの数瞬の間だったかもしれない。
 気がつくと、女の人が顔を上げて男の肩越しにこちらを覗いていた。
 僕と目が合うと、女の目がすうっと猫のように細まった。まるで笑っているように。
 突然強い風が吹いた。
 顔に降りかかる桜の花びらをよけようと、僕が両手で顔をかばったその刹那、女と固く
抱擁を交わしているかのように見えた男の身体が、まるで糸の切れた操り人形のようにど
さりと地に崩れ落ちた。
 男は地面に倒れたまま、身動き一つしなかった。
 ――死んでいる。
 僕は直感的に悟った。そしてその瞬間、言い知れぬ恐怖が僕の心臓をわしづかみにした。
 女は地面に倒れている男の死体には目もくれず、ゆっくりと僕の方に近づいてきた。
 風に乱れた長い黒髪に白い肌。そして朱を差したように紅い唇。その唇の端から、さら
に紅い色をした雫がひとすじ――。
 女の唇が動いた。春の夜風のように涼やかな声が洩れる。
「『食事』をしているところを見られたの初めてね」
 そういって微笑む。
 ――殺される。
 僕は思った。
 ――逃げなきゃ。
 そう思っても、足はまるで根っこに変わったように動かない。
 女はゆっくりと僕の目の前まで来ると立ち止まった。再び女の唇が動く。
「坊や、名前はなんていうの――?」
「も……もとむらひろゆき」
 ほとんど反射的に、僕は答えていた。
 女は膝を折ってしゃがみ込むと、穏やかな笑みを浮かべながら僕の目を覗き込んだ。
「ねえ、ひろゆき君。あなたがここで見たこと、それにあたしのことは他の誰にもしゃべ
っちゃダメよ。もしこのことを誰かにしゃべったりしたら、そのときは――」
 女の目がかっと見開き、僕を見据えた。
「――お前を殺す。いいわね?」
 僕が無言でうなずくと、女は僕の耳元に顔を寄せ、こうささやいた。
「いい子ね。じゃあこれはその約束のしるし――」
 生温かい息が耳元をかすめる。女の唇が僕の首筋にそっと触れた。
「あッ――」
 その瞬間、僕はなぜか小さな叫び声を上げた。痛みにも似たかすかな感覚が僕の脳髄を
貫いたような気がした。
 女は唇を離すと、また元のように穏やかな笑みを浮かべて静かに立ち上がった。
 その刹那、またも強い風が吹いた。今度はさっきよりもはるかに強い突風で、足元に落
ちていた無数の枯葉や花びらが風で巻き上げられ、僕に向かって襲いかかってきた。
 僕は思わず悲鳴を上げて、その場にうずくまってしまった。
 しばらくしてこわごわ顔を上げると、女の姿はどこにもなかった。ただ、桜の木の根元
に男の死体が転がっているのだけが見えた。
 そのときになってようやく、まるで呪縛から解けたように僕の中で何かが弾けた。
 僕は自分でもわけのわからない叫び声を上げながら走り出すと、転がるようにしてその
場から逃げ出してしまった。

 それからどうやって家に帰ったのか覚えていない。
 あの若い女と、それと男の死体がどうなったのかも僕には分からない。
 不思議なことに、その後学校の裏山で男性の死体が発見されたというニュースは、僕の
知る限り一度も聞いたことはなかった。
 けどそれ以上に不思議なことがある。
 それは、あの日僕と一緒に遊んでいたみっちゃんとまあくんの二人が二人とも行方不明
になってしまったのだ。
 このことは大きな事件となり、警察や町の人たちが総出で裏山とその付近一帯をしらみ
つぶしに捜索したが、結局二人の姿が発見されることはなかった。
 僕も警察の人から、二人のことについて何度も取り調べを受けたが、結局ほとんど何も
答えることができなかった。
 僕が見たあの若い女のことを何度か喋ろうと思ったが、なぜかその度に、
――お前を殺す。
 そういった瞬間のあの女の眼差しが思い浮かんで、そのまま何も言えなくなってしまう
のだった。
 もう一つ不思議なことがある。
 それは、僕の首筋にできた小さな紫色の痣のことだ。
――じゃあこれはその約束のしるし。
 そういって女がくちづけしたところにできたその痣は、なぜかいつまでたっても消える
ことはなかった。
 まるで、あの日僕が見たことが、決して夢や幻ではないことを示すかのように。

 そして、それから十年近い年月が流れた。
 僕は小学校を卒業し、中学を経て高校生となり、いつしかあの日の記憶は徐々に薄らい
で、やがてほとんど思い出すこともなくなった。
 人間の記憶というのは意外と都合のいいものだ。思い出したくない出来事を忘れよう、
忘れようとつとめているうち、やがて本当に忘れてしまい、思い出すことすらなくなって
しまう。
 あの日以来、みっちゃんとまあくんは二度と戻ってくることはなかったし、首筋にでき
た痣も消えることはなかったが、やがて僕は二人のことすら忘れてしまい、痣のことも完
全に気に留めなくなってしまった。
 そんなある日のこと。そう、あれも桜の花の咲く春の日のことだった。
 僕のクラスに一人の女の子が転校してきた。
 担任の後に続いて教室に入ってきたその子を見た瞬間、僕は小さな稲妻に打たれたよう
な衝撃を覚えた。
 それはとても綺麗な女の子だった。
 練り絹のように艶やかなストレートの長い黒髪によく整った顔立ち。処女雪のようなき
めの細かい色白の肌に、切れ長の冷ややかな瞳とひときわ鮮やかなまるで紅を差したよう
に赤い唇が印象的だ。
 だが僕が衝撃を受けたのは、彼女がとても美しい少女だったからではない。
 以前どこかで彼女に会ったことがあるような気がしたのだ。
 それがいつどこであったのかは定かではない。むしろよく考えれば考えるほど、当初は
ほとんど確信にも近いものだったのが徐々に怪しくなっていき、結局は単なる思いこ込み
でしかなかったような、そんな気がしてしまうのだった。
 ひょっとしたら僕はただ単純に、彼女のその華やかで神秘的な美しさに一目で心を奪わ
れて、ふとそんなことを思いついてしまっただけなのかもしれなかった。
 自己紹介を終え、彼女が自分の席へと歩いていく途中、ふと僕と視線が合ったような気
がした。
 奇妙なことに僕と目が合った刹那、彼女の口元がかすかに歪み、まるで笑みを浮かべた
ような気がした。
 だがそれはあくまで一瞬の出来事で、次の瞬間には彼女は何事もなかったように僕の前
を通り過ぎてしまっていた。
 僕をその後不思議な運命へと導いていくことになる、咲夜という名の少女との、これ
が出会いだった。

 咲夜が転校してきて以来、名もない地方の公立高校の平凡で単調な学校生活は、一転
して静かな狂熱を孕んだものへと変わった。
 まるでそれまで止まっていた時間が、一人の少女を中心に目まぐるしく動き出したかの
ように。
 美しい転校生はその日のうちに、クラスはおろか全校中の男子生徒の注目の的となった。
 いや、男子だけでなく普段何かと口さがない女子でさえも、彼女の美貌にどこか圧倒さ
れてしまっているようだった。
 それほどまでに彼女は、他の周りの生徒たちとはかけ離れた存在であるようだった。
 当然のごとく何人もの男が彼女にアプローチしたが、その全員が無念の涙を呑まされた。
 級友たちはいつも、何組の誰それが咲夜にアタックした、誰それが玉砕したなどとい
う話でひそかに盛り上がっていたが、僕はなぜかそうした話題にはまったく馴染めずにい
た。
 咲夜を初めて見た瞬間から、僕は彼女に対して何ともいえない、奇妙な恐れにも似た
感情を抱いていたからだ。
 そんな風にして、一月以上が過ぎたある日のことだ。
 昼休みに僕が教室で読書をしていると、
「本村君」
 不意に背後から声をかけられた。
 振り向くと、咲夜がにこやかな笑みを浮かべて僕を見つめていた。
「ねえ、そんなに熱心に何の本読んでるの?」
 彼女は後ろ手を組み覗き込むようにして、僕に話しかけてきた。
「えっ、ああ、これかい……」
 僕は少し戸惑いながらも、読んでいた文庫本の背表紙を彼女に示した。
 少なくとも僕の知る限りでは、彼女がこんな風に他の男に対して自分から話しかけてき
たことなど一度もなかったからだ。
「へえ、面白そうな小説ね。読み終わったら今度あたしに貸してよ」
「別に、いいけど……」
 僕はますます訳が分からなくなってしまった。
 なぜ急に彼女がそんなことを言い出してきたのか、よく飲み込めなかったからだ。
 だがそれ以来、どういう風の吹き回しか咲夜は何くれとなく僕に話しかけてくるよう
になり、そして僕もまたそれに応じて二言三言会話を交わすようになった。
 そしてさらに一月が過ぎる頃になると、いつしか僕と彼女とはごく自然と付き合い始め
るようになっていた。
 なぜ彼女のような美しい女の子が僕のような平凡な男と付き合う気になったのかまった
く分からない。
 自慢じゃないが、僕はそれほど成績もよくはないし、スポーツも苦手で、どちらかとい
うとあまり目立たない地味なタイプの人間だったからだ。
 そんな僕が学校一の美女と付き合っていることはたちまち噂となり、僕は学年中の男子
から羨望とやっかみの目で見られる始末となった。
 僕はそうした周囲の目にただ戸惑うしかなかった。
 確かに、僕のような冴えない男に咲夜のような美人のガールフレンドができたことは
素直に嬉しかった。
 けどそれはあまりにも出来過ぎている話のような気がしたし、それに肝心の咲夜自身
が何を考えているのか、僕にはさっぱり分からなかったのだ。
 一度僕はそうした疑問を彼女にぶつけてみたことがあった。
 なぜ君はよりにもよって僕みたいな男と付き合うのかと。
 彼女は僕の目をまっすぐ見つめ問い返した。
「なぜそんなことを訊くの?」
「なぜって……」
 僕は口ごもってしまった。
「どう考えてみても僕にはよく分からないんだ。なぜ君みたいな人が、他の男を差し置い
て、僕みたいな何の取り柄もないつまらない男と付き合ってくれるのか」
「あなたがつまらない人間だったら、あたしだってつまらない人間だわ」
「そんな……」
「いえ、ホントよ。あたしだって別に取り立てて人より優れた才能や取り柄とかがあるわ
けじゃない。すぐみんなはそうやってあたしのことをまるで特別な人間みたいな目で見る
けど、あたしだって中身はそこいらにいる普通の女の子と全然変わらないのよ」
 そういうと咲夜は、足元にあった小石を靴の踵でポンと軽く蹴った。その姿はいつも
の彼女と違って、どこか寂しげではかなげな印象を受けた。
「それに――」
 突然咲夜が視線を上げて僕の目を見つめた。
「あなたとあたしとは、いつかこうして出会うって決まっていたのよ」
「決まっていた?」
 僕は思わず問い返した。彼女のいっていることの意味がまったく分からなかったのだ。
「そう、すべての出会いには必ず何らかの意味がある。一見偶然に見える出来事であって
も、その背後には決して人の伺い知ることのできない大いなる理が隠されているの。そし
て私達は皆、その理に動かされて今ここにこうして立っているのよ」
「よく、わからない……」
「そうね。今はまだわからないでしょう。けどあなたにもきっと分かる時がやってくるわ。
いずれ近いうちにね」
 そういって咲夜は謎めいた笑みを浮かべた。白い顔に、紅をさしたように赤い唇が艶
やかに濡れている。
 その咲夜の顔を見つめながら、僕は奇妙な感覚に襲われていた。初めて彼女を見たと
きに感じたのとまったく同じ感覚だ。
 古い記憶の底に沈んでいた映像が甦り、次第にそのおぼろげな輪郭を明確に浮かび上が
らせていく。視界の中の咲夜の顔が二重写しのようになってゆっくりと大きくなってい
く。
 そして、二つのイメージが結びつき、一つに重なり合おうとしたその瞬間――
「――!」
 僕は突然激しい頭痛を感じて、その場にうずくまってしまった。
 激しく混乱する気持ちを静めるため、僕は何度も大きく息を吸い込んだ。
 どのくらいの間、そうしていただろうか。
 突然強い風が吹いた。
 気がつくと、咲夜はいなかった。僕は立ち上がって周囲を見渡したが、咲夜の姿は
どこにも見あたらなかった。
 人気のない公園の片隅に一人取り残された僕は、しばし呆然とその場に立ち尽くしてい
た。
 ――やはり、僕と咲夜とは以前どこかで会ったことがあるんだ。
 立ち尽くす僕の目の前を、どこから飛んできたのか桜の花びらが一枚二枚、静かに音も
なく舞い落ちていった。

 ちょうどその頃、僕はしばしば夢を見るようになった。
 どんな夢なのかは定かではない。
 夢を見ているときは鮮明に覚えているのだが、目が覚めるとなぜか途端に、今まで見て
いた内容をほとんど忘れてしまうのだ。
 ただ、いずれもなんとも形容しがたい不気味で恐ろしい夢だということ、そして必ずと
いっていいほど一人の少女が出てくることだけは漠然と記憶の片隅に残っていた。
 その少女が誰であるのか、それも定かではない。咲夜であるような気もするし、ある
いは他の誰かであるような気もする。
 ただうっすらとだが、その夢の中に出てくる少女に、僕はどこかで会ったことがあるよ
うな、そんな印象だけが漠然と残っているのだった。
 そして僕はいつも夢を見る度に、どろどろとした夢想の世界の中で激しく恐怖し、混乱
し、興奮して、最後には異常なまでの快楽の波に呑み込まれて力尽き、果てるのだった。
 何かが変わり始めていた。僕の内でも、そして外でも。
 咲夜が僕の前に現れるのと相前後するように、町では奇妙な事件が頻発するようにな
った。
 子供が行方不明になったり、若い男の変死体が発見されるなどの事件が相次ぐようにな
ったのだ。
 僕の家の近くの竹藪でも中年のサラリーマンの死体が発見され、警察が周囲を聞き込み
するなどの騒ぎとなったが、目撃者も手がかりになるようなものも何一つとして発見され
ず、結局他の多くの変死事件と同じように自殺として処理されてしまったようだった。
 やがて、次のような噂がまことしやかに流れ始めた。
 発見された死体にはいずれも目立った外傷がなかったにもかかわらず、体内には血がほ
とんど一滴も残っていなかったというのだ。
 事件のことを聞く度に、僕はいつも何ともいえない胸騒ぎを覚えた。
 だが、その胸騒ぎの正体がなんであるのか深く考えようとする度に、なぜかいつも頭が
ひどく混乱して、何も考えられなくなってしまうのだった。
 内には言い知れぬ不安を抱え、外では級友達の嫉妬の視線にさらされながら毎日を過ご
す僕にとって、咲夜の存在だけが唯一の慰めだった。
 多少謎めいたところがあるにせよ、小夜子はいつも僕に優しく接してくれていた。
 彼女は本当に僕に対して好意を持ってくれているようだった。
 そして僕もまた、心の奥底で咲夜にどこか得体の知れぬ畏れのようなものを抱きなが
らも、寝ても覚めても彼女のことばかり考えていた。彼女のことしか考えられなくなって
しまっていた。
 そして、そんな関係が一年近くほど続いた頃、その事件は起こった。
 僕の通っていた高校で死体が発見されたのだ。
 死んでいたのは、僕のクラスメートの毛利達也という男。第一発見者は何を隠そうこの
僕だった。
 実はこの毛利という男は学内でも名うての女たらしで、咲夜にしつこく付きまとって
いた男の一人でもあった。
 その日の放課後、咲夜のことで毛利に呼び出された僕は、人目につかない体育館の裏
に転がっていた彼の死体を発見したのだ。
 僕が見たとき、彼は冷たい土の上に横たわったまま白目をむき、その奇妙にねじくれた
屍の上には不可思議なことに、まだ二月の中旬で桜の咲く季節には程遠いのに、薄紅色の
花びらがまるで雪のように降り積もっていた。
 咲夜を巡って常日頃から彼と仲の悪かった僕は当然のごとく疑われ、警察でもかなり
しつこく取調べを受けたが、他殺を裏づける物証は何も発見されなかったことから、結局
彼の死は事故ということで片づけられた。
 警察の現場検証が行われている間、学校は休校になり、一週間ほどしてまた再開された
が、その間に僕を取り巻く周囲の状況は一変してしまっていた。
 誰も僕とは口を利かなくなった。
 警察の容疑は一応晴れたものの、皆僕が毛利を殺したと思っているようだった。
 彼が咲夜のことで僕を一方的に毛嫌いし、盛んに僕の悪口を言っていたのを皆知って
いたからだ。
 僕を見る周囲の視線には、あからさまな疑惑と、そして恐怖が込められていた。明らか
に自分達とは違うもの、異質なものを見る目である。
 クラスメートはおろか担任の教師さえも、僕に対して露骨によそよそしい態度を取るよ
うになった。
 家には無言電話がかかってくるようになり、下駄箱には毎日のように「人殺し」とか
「死ね」とか書いた紙が投げ込まれていた。
 そうした極度に孤立した状況の中で、僕はひたすらただ一つのことだけを考えていた。
 咲夜のことである。
 あの日、体育館の裏で桜の花に埋もれて横たわっていた毛利達也の死体を見た瞬間、僕
は直感的に咲夜の仕業だと思った。
 なぜそう思ったのかわからない。無論彼女がやったという客観的な証拠は何もない。
 しかし動機なら考えられる。
 咲夜が、自分にしつこく付きまとっていた毛利を僕がやったと見せかけて殺すことな
ら十分考えられうる。
 が、ただそれだけだ。他に証拠も証言も何一つとてない。根拠といえるのは僕の単なる
勘、いや、勘とも呼べないような馬鹿げた思い込みに過ぎないのだ。
 僕は最初そうした考えを一笑に付そうとした。だが否定しようとすればするほど、僕は
逆に何かに取り憑かれたようにそれから逃れられなくなってしまった。
 仮にも自分の彼女に殺人の疑いをかけるなんてひどい奴だと思われるだろう。だが、当
時の僕はそれほどまでに精神的に追いつめられていた。
 もし咲夜が毛利を殺したのなら、そしてもし一連の怪事件にも彼女が関わっているの
だとしたら、僕はなんとしてでも彼女を止めなければならない。そう、自分の命に代えて
でも――。
 幾度も眠れぬ夜を過ごしながらそう思いつめるようになった僕は、やがてある行動を実
行に移すことを決心した。
 三学期の終業式があった日の帰り、いつものように咲夜と別れた僕は、そのまま家に
帰るふりをしてこっそり彼女の後をつけた。
 女の後を尾行するなんて変質者のような、いや変質者そのものの行為だが、そのときの
僕にはそこまで気を回す余裕はすでになかった。
 咲夜は僕が後をつけていることなどまったく気づいていない様子だった。僕はまるで
TVドラマに出てくる刑事のように、電柱の陰や曲がり角に身を隠しながら、十メートル
ほどの距離を置いて彼女を尾行し続けた。
 聞くところでは、彼女は確か隣町から電車で通っているとのことだったが、他に用事で
もあるのだろうか、なぜか駅とは正反対の方角へと歩き続けていた。
 咲夜を尾行していた僕は、やがて一つのことに気づいた。
 彼女がある場所へと近づきつつあることに。
 国道を左に曲がって長い坂道を上ると、見覚えのある懐かしいコンクリートの建物が見
えてきた。
 昔、僕が通っていた小学校だ。その小学校の裏には小さな山があり、そこには古い神社
があって……。
 僕は立ち止まった。急に何ともいえない胸騒ぎがこみ上げてきたのだ。
 すっかり忘れてしまっていたはずの古い記憶の底が、じわじわとせり上がってくるよう
な感覚。
 なんなのだろう、この感覚は。
 そういえば、僕は小学校を卒業して以来ずっと、母校を訪れることはおろか、この近辺
に足を向けることすら無意識のうちに避けていたような気がする。
 けれどもそれはなぜなのだろう。いったい何の理由があって――。
 突然僕は頭の芯に鋭い痛みを覚えた。僕の中のもっとも動物的な本能の部分が、これ以
上行ってはいけないと警鐘を鳴らしているような気がした。
 けれども咲夜はそんな僕の躊躇など知る由もなく、学校の裏山の中腹にある神社へと
続く長い石段を登り始めていた。
 そして僕もまた、まるで何かに操られるようにふらふらと彼女の後に続いていった。
 長い石段を登りきると、なぜか咲夜の姿はどこにもなかった。
 すでに夕暮れ時は近く、暮色の立ち込め始めた神社の境内は、時折聞こえる陰鬱な烏の
鳴き声を除いては物音一つなくひっそりと静まり返っていた。
 ――ここは、この神社は……。
 忘却の彼方に沈んでいた記憶が徐々に蘇る。
 ――そうだ。あの日僕はみっちゃんやまあくんと一緒にここでかくれんぼをしていてそ
れで……。
 記憶の痕を辿るように、僕は神社の裏の雑木林の中へと入っていく。
 細い獣道を歩いていくと、急に木立が開け、目の前に一本の大きな桜の木が現われた。
 開花の時期にはまだ間があるはずなのに、不思議なことにこの木だけは見事なまでに満
開の花が咲き乱れている。
 僕は桜の木の足元に立ち、しばらくの間じっと頭上を仰いでいた。
 不意に背後でかさりと枯葉を踏む音が聞こえた。
 咲夜だ、と僕は後ろを振り向くことなく直感的に悟った。彼女は僕が後をつけていた
ことを知っていたのだ。
「何をしているの?」
 春の夜風のような涼やかな声が問いかけてきた。いつか、どこかで聞いたことのある声
が。
「昔のことを思い出していた」
 僕は頭上を見上げたまま答えた。
「もう何年も前のことだ。僕は友達と一緒にここの神社でかくれんぼをしていた。友達と
はぐれた僕は林の中を探し回り、そして見たんだ。この桜の木の下で、若い男と女が抱き
合っているのを。僕はその様子をただ声もなくじっと見つめていた。そのとき突然強い風
が吹いて――」
 僕はゆっくりと背後を振り返った。黄昏の夕闇の中に咲夜の白い顔が浮かび上がって
いた。
 記憶の中にあるあの時の女の顔と目の前にある咲夜の顔――二つの顔が今一つに重な
り合う。
「咲夜……」
「どうやら思い出したようね」
 咲夜が微笑んだ。その微笑みまであのときとまったく同じだった。
「なぜ……」
 なぜ今になって僕の前に姿を現したのか――決まっている。僕を殺すためだ。
 あの日、取らずに残しておいた僕の命を奪うため、再び僕の前に現われたのだ。あのと
きと同じ姿のままで。
 穏やかな笑みを浮かべたまま咲夜が近づいてくる。
 奇妙な静けさに満ちた絶望の中で、僕はただそれをじっと見つめていた。
 咲夜の左手がゆっくりと上がり、僕の喉元を掴んだ。
「――!!」
 次の瞬間、僕の身体はそのほっそりとした腕からは想像もできないような凄まじい力で
背後の木の幹に押し付けられていた。
「確か約束したはずよね。あたしのことを誰かにしゃべったら、そのときはあなたの命を
頂くって」
 咲夜の指がまるで万力で締め上げるように僕の喉に食い込んでいく。息がつまり、視
界が徐々に狭まっていく。
 朦朧とかすむ意識の中、僕はいつぞや咲夜が言った言葉を思い出していた。
 ――あなたとあたしとは、いつかこうして出会うって決まっていたのよ。
 ――そう、すべての出会いには必ず何らかの意味がある。
 ――私達は皆、その理に動かされて今ここにこうして立っているのよ。
 ――あなたにもきっと分かる時がやってくるわ。いずれ近いうちにね。
そうか、あのときのあの言葉は――すべての謎が解けていく。と同時に、不思議な安らぎ
が胸の奥を満たしていく。
 人は皆、見えざる運命の理に動かされて生きている。もしそうであるのなら、僕が今こ
うして彼女に命を断たれようとしているのもまた、人ならざるものに魅入られてしまった
者に与えられた逃れ難い宿命であるのかもしれない。
 咲夜の白い顔がゆっくりと近づいてくる。紅を差したように赤い唇が淫らに濡れてい
る。
 咲夜の唇が僕の首筋に吸い付いた。
 その瞬間、痛みにも似たかすかな感覚が僕の脳髄を貫いた。
 だがそれもあくまで一瞬のことで、次の瞬間には、これまで感じたこともないような圧
倒的な快感が僕の全身を包み込んでいた。
 僕の四肢から次第に力が失われていく。意識が白濁していく。すべての恐怖も苦痛も、
麻薬のような快楽の波に呑まれ、白い闇の中へと溶け込んでいく。
 めくるめく法悦の中、いくつもの記憶の断片が幻のように次々と浮かんでは消えていく。
 幻――そうすべては幻だったのだ。十年前のあの日、咲夜と初めて出会ったあの瞬間
から、僕は彼女の掌の中で弄ばれ、うたかたの夢を紡いできただけに過ぎないのだ。
 咲夜の腕に抱かれたまま、僕は永遠に終わることのない深いまどろみの中へと落ちて
いった。

 そして幾つもの歳月が流れた。今年もまた春がやってきた。
 あれ以来、誰にも発見されることなく冷たい土の中で朽ち果てていった僕の上に、今日もまた桜の花びらが音もなく降り積もる。まるで、薄紅色の雪のように……。


 
 
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