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クリエイター名  電気石八生
おにのけん

 雨はいつしか止んでいた。
 甲高くうねる強い風が、相対するふたりの男の頬をこすり、行き過ぎていく。
「すまぬな」
 がろがろと濁った声音を紡ぎながら、片方のやせ細った男が小さくよろめいた。
 病んでいる。それも、立つことすらままならぬほど重い胸患いを。しかし。
 どす黒く染まった顔のただ中、目尻のつり上がった両の眼は澄んだ光を宿し、強く輝いていた。その、不可思議な神々しさはまるでそう、稲荷狐のようだ。
「おう」
 響きの低い艶めかしい声音で応えたのは、角張った顔をくせのある髭で覆った男だった。
 腕、脚、胴、顔、毛の一本一本までも、どこもかしこも、なにもかもが、筆で書き込んだかのごとくに太く、なめらか。丸っこく愛嬌のある眼と相まって、さながら狛犬といった風情である。
「手数流、緒仁木場千之進(おにきば せんのしん)」
 自然体で立つ痩せ稲荷が、腰の刀に手をかけた。
「手数流、尾丹摘一重郎(おにづめ いちじゅうろう)」
 狛犬が、痩せ稲荷と同じ構えを取った。ただし腰を深く落とし、後ろに引いた左脚に体重を預け、細かに揺すっている。
 刃を抜く意志を隠す痩せ稲荷と、逆に隠すこともせずに強く抜き打つことだけを図る狛犬。
 とはいえ、どちらも幼少のころより同じ流派で学び、“手”を磨き上げてきた仲だ。隠そうと隠すまいと、互いに互いの兵法は知り尽くしている。
「尋常に、勝負」
 痩せ稲荷が唱えた、次の瞬間。
 狛犬が大きく右足を踏み出し、抜刀した。
「推して参る!」
 抜きながら鞘を投げ捨て、敵の虚を突いて斬り払う抜刀術――手数流兵法において弟子が最初に教え込まれる“一手”である。
「ふっ」
 短い呼気に乗せて、痩せ稲荷が同じ“一手”を繰り出した。
 ただし、狛犬のように単純な抜き打ちではない。その固いはずの剣先が、どろりと狛犬の剛剣へまとわりついていく。
 手首の返しだけで斬り下ろし、斬り上げ、斬り払い……数十もの“手”を重ね、相手を初閃ごと圧殺する、痩せ稲荷が編み出した技である。その様は牙で噛み砕くがごとしと評され、伝書の奥義に“噛手”と記されることとなった。
 しかし。
 その、継ぐ者は今後百年現われないだろうとまで云われた痩せ稲荷の神業が。
「っ」
 狛犬の、ただの一手に弾き飛ばされた。
 それどころか、その切っ先は折り飛ばされ、さらには受けにまわした残りの刀身すらも半ばからへし折られ、落ちたのである。
「おお」
 尋常を超えた剛剣に追われ、痩せ稲荷が下がった。
 いや、確かに下がったはずなのに、目の前に狛犬が迫っていた。彼は踏み込んだ足をたぐり、痩せ稲荷が下がるに合わせてもう一歩踏み込んだのだ。
 狛犬の兵法を支えるは剛力にあらず、眼である。
 敵の技を見て取り、それを上回る技で噛み砕く「後の先」を成すのが痩せ稲荷なら、先にしかけながら敵の対応を見切り、さらに対応して押し潰す「先の後の先」こそが狛犬の真骨頂なのだ。
 ただ、ここまで間合が詰まってしまえば、狛犬も剣は振るえない。
 迷わず剣を捨てた痩せ稲荷が、微妙に拍(リズム)をずらした左右からの掌打で敵の頭を噛む“百八手”を放った。
「千之進!」
 狛犬が痩せ稲荷――この徳川太平の世でただひとりの幼なじみであり、兄弟子であり、かけがえのない敵である男の名を呼んだ。
「一重郎」
 痩せ稲荷が狛犬――この徳川太平の世でただひとりの幼なじみであり、弟弟子であり、かけがえのない敵である男の名を呼び返した。
 赤鬼の形相で、狛犬が痩せ稲荷の右手を己の右手で受けた。そのまま螺旋を描いて千之進の右腕を絡め取り、すれちがうように歩を進める。
 前へ進むことでからめた腕にひねりの力を生じさせ、敵の腕関節を砕きながら体を投げ落とす“二百五十三手”。
 受け身もとれぬまま、痩せ稲荷は中空に半円を描いて地に叩きつけられ。
 狛犬の左足に、首を踏み折られた。
 現代の時間尺度で表わすならば、わずか十秒。たったそれだけの間で、ふたりの男が死合い、殺し、殺された。そして。
「ずるいぞ千之進! 主ばかり、ずるをしおって――」
 狛犬が、天を仰いで泣き出した。
 ああ、そうだ。
 死に行く痩せ稲荷は己の願いのため、狛犬を利用したのだ。太平の世のただ中に隠れ棲みながら磨いてきた爪と牙で存分に殺し合い、死ぬ。ただそのために。
 狛犬はそれを知りながらこの場に立ち、請われるままに痩せ稲荷を殺し、そして独り残された。
「主が死んでしもうたら、儂は誰に喰われればよい?」
 死せる頬に薄い笑みをたたえた痩せ稲荷は、応えない。
 迷い子のように立ち尽くす狛犬は、その笑顔から目を引きはがし、とぼとぼと歩き出した。
 死ぬまでは生きねばならぬ。
 爪と牙を隠し、人のふりをして、ずっと。
 雨上がりの夜空に月ばかりが白々と輝き、途方に暮れた狛犬を、一寸先すら見えぬ深き闇へと追い立てるのだった。
 
 
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