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クリエイター名  斐崎ゆきみ
サンプル

『Overture』


 世界の終りがきた夜、泣いたのは一体誰だったのだろう?
 ――終熄の足音を聴いた夜に。

 地上を堕する、凍りついたままの深い深い群青色。喪われていく残響のような、物悲しい、冷温のそら。
 くっきりと澄み冴えた空気からは、まぎれもなく夜のにおいがする。
 途絶えた還流。
 黎明の兆しは、ない。


 東の空。
 切り立った崖の岩肌に足を投げ出して、少女は敢然と、遮られることなく寒々とひろがる天地の涯を見つめていた。誇り高く顔をあげて。
 疑う余地もなく劃されたはずの空と陸とが、繋がり混じりあう地平線。相反する二つのものが、出遭い、拮抗し、交感するその場所に、いにしえの人々は楽園を見たのだという。――けれどもきっと、それだけではない。夜明け前に東天を臨む時の、祈るような静けさと烈しい熱情。
 眼下には荒れ果てた原野と街の骸が転がっている。尋常ではない荒廃ぶりは、まるでいつかの古い遺跡を思わせるが、その場所が街の姿を保っていたのはそれほど遠い昔ではない。
 ――遠い昔ではない、ことを、少女は知っていた。
 強い風に撃たれて乾いた瞳を二、三度まばたきで潤してから、少女は再びゆっくりと揺るがない視線を向けた。
 決してとどかない遼遠の陸と空に昇ってくる旭日を、彼女は待っていた。

「キラ」

 まだ声変わりもしていない少年の呼び声に、少女はさして驚いたふうもなく背後を振り返った。そうして、よく見知った少年の、どこか憮然とした、呆れ返ったような顔に笑いかける。

「おはよう」

 なんとなくその言葉に出鼻をくじかれてしまって、少年――ユタはおはよう、とぼんやり返事をした。それから深くため息を吐いて、棘のある口調で言う。
「また来てたの」
 ユタの声に潜んだ詰るような響きに気づいているのかいないのか、キラは柔らかく目を細める。
「うん。そろそろ夜が明ける頃だからね」
 キラは妙に落ち着き払った態度でもういちど空へ目を遣った。それを退屈そうな目つきで追って、ユタは疲れた声を吐き出した。
「……夜なんか、明けないよ」


 ――ここ何年も、この地に太陽は昇らない。あの終末の日に世界は死んだのだ。
 大地が軋み、空が悲鳴をあげる。
 突如起こった未曾有の変災により、多くの生物が容赦なく死に絶えた。世界は崩壊し永い永い夜の時がすべてを覆い尽くした。訪れない朝。繰り返されるべき円環の断たれた灰燼の上。稼穡を亡くした、神から見放された地。
 理由など誰にもわからない。――ただひとつわかるのは、夜は明けない、ということ。
 その事実は、地獄を生き延びた人々の最後の希望を凄惨に打ち砕いた。
 夜は、明けない。
 今はもう誰もがそう思っている。


 けれど。
「朝は来るよ」
 否、とキラがはっきり言った。
 別段大きな声ではないけれど、ひどく凛とした力の篭もった、透き通る声音だった。
 まっすぐに。
 疲れ果てた人々がいつしか日昇を諦めてしまっても、キラは日の出を信じていた。ただひたすら信じて、毎日、飽きもせず夜明けの時間になると街を抜けて太陽が昇るのを待ちつづけていた。拗れたところのない面差しをして。
 ――どうしてそんなにまっすぐな目で、愚かしいほど一途に信じきれるのか、ユタにはわからない。
「いつまでそんな夢みたいなこと言ってるのさ。そんなんだから大人たちに――」
 そこまで言って、ユタは口をつぐんだ。キラが首をひねってちらりとユタの顔を見上げると、ユタは決まり悪そうに口をへの字に結ぶ。その様子に、キラはふっと口許を緩めてつぶやいた。
「……うん、知ってるよ。大人たちがなんて言ってるか」
 キラはもともと、ユタの住む街の住人ではない。生まれたのも、住んでいたのも、この崖から一望できる、あの廃墟になってしまった小さな街だ。終末の日に、家族も友人も亡くしあの街でたった独りだけ生き残ったキラは、すぐ近くのユタの街に移り住んできたのだった。
 大人たちは、未だに街に馴染めず、たったひとりで日が昇るのを信じているキラを“親を亡くしたせいだ”、“可哀想に”と言い、夢ばかり見ている憐れな子どもだと口さがなく蔑み嗤う。水も食料も住むところも十分ではない、自分が生きるので精一杯なこの時代に、そんなキラを街の人たちが邪険に扱ってしまうのは仕方のないことかもしれなかったし、キラもそのことで愚痴をこぼしたりはしなかったけれど、それが何故だかユタには歯痒かった。
「……大体、もう俺、朝の色なんか思い出せないけどな」
「そう?」
 キラは脱力した両足をぶらぶらと揺らしながら楽しそうに声をたてた。
「わたしは憶えてるよ。濃紺にオレンジのひかりが流しこまれてく朝焼けも、目が眩むほど強くて温かい朝日の色も」
 風が、襤褸切れのような麻の服をはためかせた。
「だから、忘れないうちにまた焼きつける」
 絶望の色などないその両目に、ユタはざわざわと心が揺さぶられた。どうして――どうしてキラは。
「なんでそんなに信じられるの」
 また朝日を見られると。
 ぜったいに夜は明けるのだと。
 考えてみればそれは、今まで一度だって訊ねたことのない問いだった。けれど、一番訊いてみたいことだった。
 キラは一瞬きょとんとした表情になり、それからひどく真剣な面持ちになった。それは普段あんまり見ないキラの顔つきで、ユタは何故かたじろぐ。
「ねえ、わたしたちは、あの終末の時を越えて生きてるんだよ」
「――え――?」
 ユタは言葉の真意がつかめず、じっとキラを見た。キラは目を逸らさなかった。
「今ここで生きてるんだよ。この地で」

 誰もが、神に見捨てられたと嘆く大地の上で。

 ユタは、かすかに目を瞠る。
 キラは深く澄んだ、真摯な誇り高い双眸で見つめ返す。
 つらぬく。
「明けない夜なんかない」
「――――」
 強い、偽りのない声だった。諦めも怖れも疑いも、なにひとつない凛冽な。
 ひたむきで純粋な、嘘のないそのひとことに、心臓をつかまれた気がしてユタは息を呑んだ。
 なんの技巧も凝らしていないたったの拾文字は、あらゆる不安を、あらゆる疑いを、あらゆる悲しみを、拭い去る音色をしていた。
 あらがえない、輝きを秘めていた。
 そうして、キラの唇がひどく楽しげに笑みを含んだ。
「きっとわたしたち、この世界で一番最初の朝日を見るよ。――そう思うだけでわくわくしない?」
 蛍火のやさしさで光る、濁りのない瑠璃色の瞳に、きらきらとひかりを弾いて跳ねるその言葉に、ユタは息をつまらせる。
 他の誰が嗤っても、ユタだけは彼女を嗤えない。
 あざやかに乱反射する光の正体。
 灼熱の想い、迷いのない祈り。胸に掲げた宝石。
 至純の言霊。
 100メートルを全速力で走った時みたいに、どくどく動悸がした。胸のあたりが熱く波立って苦しかった。
 ユタは渇いた喉で何度も何度も唾をのみこんでつぶやく。
 震える声でつぶやいて、願った。
「……見れる、かな」
 キラはにっこりと微笑んだ。
 当然のことだと。理屈なしに。
「見れるよ。ぜったい」
 信じたい、
 希望と、祈りと、願いと、……未来。
 全部が詰まった言葉だった。本当はきっとずっといちばん欲しい答えだった。
 「……うん」
 目の淵から何か溢れてしまいそうで、ユタはただまぶしそうに空を見た。


「――ねえ、キラ」
 ふいに、ユタが問いかけた。視線は空に預けたまま。

「あの時、泣いた?」

 誰もが明けない空に涙した時。
 誰もが絶望の淵に立ち尽くした夜。
 たった独りの街で。

「泣いてないよ」
 キラは鮮やかに笑った。風に髪を閃かせて。

「だって、終わりじゃないもの」

 ……生きて、生きて、生きてゆく生命の力。目指すひかり。
 立ち止まらずに。

 世界は思うよりずっとしたたかで、人は思うよりずっと我儘で、いつだってしぶとく生きていく。
 だからきっと。
 いつかこの空にひかりが射す。

 いつの日か、東天に曉雲がたなびき、朝日がのぼる。暁鐘の音が聴こえる。


 ――きっと何度でも、世界はよみがえる。


fin.
 
 
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