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クリエイター名 |
聖都つかさ |
サンプル
黄金色の追憶
はぁ…はぁ…はあっ! 激しい息遣いが鼓膜を穿つ。もう随分前から心臓が悲鳴をあげていた。だが、その持ち主であるところの少女は、それに頓着する様子はなかった。 もっと遠くへ、もっと早く! それが、今の彼女を支配する全てだった。倒れては立ち上がりする少女は、よく見ればまだ幼い。 10歳位と思われる、背の中ほどまで伸びた薄水色の髪に、意思の強そうな紅蓮の瞳が印象的な少女だった。 苦しそうに息を吐いて、少女は朱色の闇の中を走った…否、走っているつもりなのだが、実際には疲労に苛まれ、その足取りは酷く頼りなげなものであった。 「あ…」 絡み合った棘のある低木に足を取られ、少女は倒れこむ。 「ぐ…うぅっ!」 新たな傷口から命の源が流れ落ちる。一つ一つは決して深くはない無数の傷口が、一斉に自己主張して彼女に想像を絶するほどの激痛を与えた。 痛みに遠くなる意識。閉じかけた目蓋の奥で朱色の闇が踊った。
『逃げなさい!ティナ』 若く美しい女性のそれ。 (ねえさん…) 優しくて、いつもそばにいてくれた6つ違いの姉。焼け落ちていく村を背に、死を覚悟した者特有の壮絶な表情をその面にはいて、彼女は言ったのだ。 生き延びろ、と。 「死…ない…」 死ねない。…そうだ、約束したのだ、自分は。 ティナは傷だらけの腕に力をこめて、這いずるように身を起した。 立ち止まるのは死。 ヤツらが来る。人よりも狡猾で、獣より凶暴なそれ。 光の勇者たちが、闇の王を倒しても、しばしの間大陸は混沌としていた。浄化しようとする、絶対的な光の力に探知されるほど闇の力に突出していない…それでも人よりは遥かに強いものたち。 消滅させられる前に、庇護を求め自らの神の腕の中に逃げ込んでしまった上級魔族の後を追うためにか、光に染まろうとしている大陸の中に残された下級のそれらは狂ったように、力を得るための餌でしかない人間を襲い、悪夢を再び人々の中に呼び起こした。 そして、ティナの住んでいた山間の小さな村にも、血に飢えた下級魔族の餌食となったのだ。 悲鳴、そして放たれる紅蓮の炎。 魔族は往々にして、幼い無垢なる者を好む。無垢な肢体を咀嚼し自らの糧にするだけでは飽きたらず、時には子を成す者まで居るのだった。 『逃げなさい、せめて、あなただけは…』 聖職者である姉は、そっとティナに祝福の呪文を唱え、彼女を抜け道の中に押し込んでその入り口を閉じた。 扉が閉じる瞬間、目に焼きついたあの、切なくも優しい微笑みが忘れられない。 よろり、一歩足を踏み出す。靴が脱げ落ちた剥き出しの爪先に新たな傷が刻まれていく。顔をしかめながらも、背後の朱色に燃える闇から逃れようと歩を進める。 ──…しかし、それから数歩も行かぬうちに、ティナは絶望の具現したそれに追いつかれてしまったのだ。 「ケケケ…ガキダ!極上ノタマシイ…!」 「喰ッテシマオウ」 「ソレニハオシイ…」 深く落ち窪んだ瞳、腐臭を放つ大きく裂けた口、嫌悪の対象でしか無い者。品定めをするように見つめてくる視線。汚らわしいそれに、ティナは肌が粟立つのを感じた。 「………!」 からからに干からびてしまった喉からは、声にならない悲鳴しか出ない。 恐ろしくて、心が麻痺してしまいそうになる。震える指で、彼女は自分を取り囲んだ5匹の魔族に対抗しうる武器を探った。 だが、見つけたのは小さな、小さな、護身用の短剣。弱々しい銀の光を放つその刃が、酷く悲しくて、ティナは途方にくれる。 反射的に手が動いていた。刃を押し当てる、自らの首筋へと。 じりじりと包囲網を狭めていくそれらに自分は余りに無力だった。魔族に自由にされる屈辱と恐怖に比べれば、自ら果てる恐怖など消えてしまう。 (ごめん…ごめんね…) 自分を守ろうとしてくれた姉に、心の中で何度もわびる。だが、他に術は無かった。 閉じた瞳から流れ落ちた一筋の涙を合図に、狂った笑い声を上げ飛び掛る魔族の前で、ティナは短剣を握る手に力をこめた。 「おやめなさい!」 涼やかな声と同時に、爆発的な白い、光の奔流。 「ゲギャァァアァ…!」 断末魔の悲鳴に驚き、ティナが慌てて見やったそこに、美の化身とも言えるものが佇んでいた。 金糸の髪に、新緑の静かな瞳。すんなりとした長身の中性的な美貌の青年が、銀色の光を放つロットを手に、ティナの方へ向かって来る。 「…やっ!」 力に満ちた者ほど、美しい容貌を身にまとう事ができるのだ、とかつて姉が言っていた事を思い出し、新たに来たのは下級よりも更に恐ろしい、人を欺く事に長けた上級のそれでないかと身を硬くするティナに、当の青年は膝を追って視線を合わせると優しく微笑んだ。 「大丈夫です、私は貴女を傷つけるものではありません」 黄金色の微笑み。染み入るように優しい笑顔にティナの恐怖に凍った心が溶けていく。高い音を立てて、その手のひらから短剣が落ちた。 「…むら…は?」 切れ切れの問いに、青年は悲しそうに瞳を曇らせた。黙ったまま、傷ついて呆然としているティナを血で汚れることも厭わずその胸に抱きかかえると、しっかりとした足取りで未だくすぶっている朱色の闇が踊る方向へと歩き出した。
「あぁ…」 少女の唇が、瞳が、絶望の形にゆがんでいくのを青年は痛ましげに見つめた。 「どう…して…?」 何もない。灰色の空間。 静かに明け行く朝焼けの光の中、村は、死した姿をさらしていた。 小さな村。ささやかな幸せ、消える事など考えられなかったのに。 「すみません…もっと早く、私が来れていたら…」 こんなことにはならなかったと、謝罪の言葉を口にするがティナは青年と視線すら合わせようともしない。 「…や、いやぁぁっ!ねえさんっ!」 幼い悲鳴が、高い空を引き裂いて響く。 「どこ…?ねぇ、みんな、ねえさん」 答えるものは既にこの世にいない。分りすぎるほど分っているだろうに、ティナは呼びかける事をやめようとしない。 「……?」 気遣わしげに見守る青年の前で、明らかに少女は心を壊してしまおうとしていた。 「隠れていないで…ねぇ…」 信じ難い現実に、涙すら枯れてしまった瞳が痛々しくて、青年はティナを強く抱きしめた。 「どうか…お願いです。心を絶望だけに染めてしまわないで、心を壊してしまわないで。貴女に生きていてほしいと願った人々は、貴女が生きることで、その方々も生き続けることができるから…」 暖かな人の温もりに、今しもどこかへ消えてしまいそうに震えていた魂が、瞳が青年をとらえる。 「私には、もうなんにもないよ?どうして私なんかを生かしたの?どうして、みんなひとりぼっちにするの?」 淋しい…吐息のように呟かれた言葉に青年は、ティナの答えようが無い問いに伏せていた目を、打たれたかのように見開き…次いで震えるティナをさらに暖かく抱きしめた。 「大丈夫です」 悲しみに震える心に届くように、青年はゆっくり言葉をつむぐ。 「私が、そばに居ます。私も、一人だから」 驚きに大きく見開いたティナの目に、緩やかにすべり落ちる金糸の合間から伸びた羽のような耳が飛び込んでくる。 エルフ…人よりも遥かに長い刻を生きる森の民。昔、何かの折に姉が話してくれた存在が目の前にいた。彼は、一体、どれほどの『置いてきぼり』を味わったのだろう…幼いながらもその事に思い至り身を起してこちらを見つめるティナの紅の瞳に青年は柔らかく微笑みながら口を開く。 「一人よりは、二人のほうが、淋しくはないでしょう?」 昇り始めた朝日の中、朝の光に負けないくらい輝く笑みを浮かべ、ティナは青年に頷いた。
長い長い、物語の始まりだった。
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