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クリエイター名  永井しきり
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便器論争


 私は高校時代、恩師から『便器のような人間になれ』と教育された。もちろん、トイレにある、あれのことである。あれになれと言うのである。冗談ではない、と憤る方も当然いらっしゃることだろう。私もそう思った。しかしその時の恩師の話は、妙に腑に落ちるものであった。そして当時の私にとって、恩師の言うことは絶対中の絶対だったのである。 いくら私がこんなことを言っても納得できないと思われるので、ともかく、そのへんのくだりを紹介することにしよう。

 その人は倫理学の講師であった。私はそのころ、余計ないざこざのない職員室に入りびたっていた。その人の机のとなりに椅子を持ち込み、昼休みなど、暇があればいつでも世間話などで時間を潰していた。
 どういう経緯でかはもう覚えていないが、ふとしたきっかけで陶器の話になった。
「有田焼って高いんだよ。何十万円もするんだ」
 最近焼き物に凝っているらしい講師が、そんなことを口にした。私は、あの皿や湯呑みに、果たしてそんな価値があるのだろうかと疑問に思った。
「みんな同じ陶器なのにね」
「その素材や焼き方で値打ちが変わるものらしい。伝統も歴史も長いしね」
 答える講師に、私はおもしろ半分で思いついたことを言ってみた。
「じゃあ便器だって伝統も歴史も長いんじゃない?」
「ベンキ? ああ、便器か」
 講師は笑った。
「たしかにそうだな」
「でもさあ、なんだかかわいそうだよね、便器。有田焼なんてみんなから日本の伝統だって褒められてるのに、便器は汚いものでも見るかのように扱われるじゃない。確かに汚いけどさ」
「まあな」
「あたしも便器みたいにみじめな生活を送らないようにがんばろうっと」
 私がそんなことを言うと、講師は意外そうな顔をした。
「おまえ、便器より有田焼のほうがいいのか」
 そう聞く講師を、私も心底意外に思った。
「あたり前じゃない。誰だって汚いより綺麗なほうがいいよ」
「そうか……」
 講師はしばらく考えこんだ。私は、もしかしてこの人は便器フェチだったりするのだろうか、と少し疑った。
「まあ、確かに便器は汚いが……」
 と、講師は口を開いた。
「日常で果たす役割は非常に大きいぞ」
「……でも、お皿だって毎日使うじゃない」
「よく考えてみろ。家の中では皿がなくてもなんとかなるが、便器がなかったら家中汚くなる。うんこまみれだ」
 私はその情景を想像して、いやだなあ、とつぶやいた。
「それにだ。陶器のなかで個室を与えられているのは、便器だけだろう」
 しかし外国ではバスタブとトイレが1セットだ。便器専用の個室ではない。そんな屁理屈を考えつつも私は黙っていた。
「しかもあの便器の存在感は、そんじょそこらの皿や壺じゃかなわないぞ。ででーんと構えて、まるで横綱のようだ。安心感がある。有田焼に勝るとも劣らず、だな」
 そうかなあ、と疑問に思った私は、反論を試みることにした。
「いくら必需品でもさあ、汚いものを受けるだけ受けてるのに、あとは知りません、みたいに扱われるんだよ」
「ちゃんと掃除はされるだろう。便所掃除専門の仕事だってある。まあ、進んでやりたいとは誰も言わないかもしれんがね。みんなわかってるんだよ、便器がいかに大切かということは」
「……まあね」
 私は考えた。
「でもあたしはやっぱり、そこにあるだけでたたえられる有田焼のほうがいいな」
 私がそう言うと、講師は少し笑った。
「なぜ有田焼がたたえられるのかわかるか?」
「う……それはだから、歴史と伝統……」
「そう、歴史と伝統だ。昔から焼かれ、使われ、多くの人から親しまれてきたんだよ。そういった繰り返しが、今の有田焼の価値をつくったんだ。模様が綺麗だとか、そういう外見のみの価値じゃなく、評価されるべきはその実用性だな。長い時間をかけて、多くの人がその価値を認めたんだ」
「うーむ……」
「だからそのうち万人からたたえられる便器も登場するかもしれんぞ」
「えー、それはないでしょう」
 私があきれて笑うと、講師もまた笑った。
「そうかな。でも便器ほど認められている陶器も、そうはないぞ」
 腕時計に目をやった講師は、話をこうしめくくった。
「有田焼や景徳鎮のような華やかな生き方もいいが、俺は便器のように、どんとかまえて役割をしっかり果たす生き方もいいと思う」
 最後まで便器の肩を持つ講師に、やはり便器フェチだろうか、と私はさらに疑問を抱いた。彼は私を見てニヤリと笑った。
「フェチではないぞ」
 始業のチャイムが鳴った。

 その後、私は大学に進学し、恩師と同じ倫理学講師の道を選んだ。
 今でもふと、あの時の恩師の言葉を思い出す時がある。
 便器のような生き方。
 私はいまだに、それを見つけ出せていない。便器はそれだけに、奥が深いのである。
 
 
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