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クリエイター名 |
仙十瑠華 |
サンプル
■僕のこと好き?
-あらすじ- 「人に愛されたことのない人間に人を愛することなんてできないんだ…」 精神科医の玲一が雨の日に出会った少年悟は父親の虐待により心に深い傷を負っ ていた。彼の治療には本来親がくれるべき、見返りを求めない無償の愛が必要だっ た。悟に無償の愛をあげようとする玲一だが、自分もまた人を愛することのでき ない人間である事に気づき・・・。
-本編-
「好きだよ」 誰?誰なの? 「誰も君に、愛をくれなかったんだね」 誰かの、声がする。 「何の見返りも求めない、無条件の愛を」 とても、優しい声だ。 「だからそんなふうに、強迫的に愛を、求めてしまうんだ」 胸の奥に、響いてくる。 「でも、もう苦しまなくていいんだ」 何を言っているんだろう? 「僕が君に、愛をあげるから」 今、何て、言ったんだろう?
目覚しがなっている。ロールスクリーンが開く小気味良い音がしたかと思うと、日差しが僕の顔に、 照り付けた。何か柔らかいものが、頬に触れている。僕はうっすらと目を開け、それが僕の顔を 覗き込む、人物の髪の毛である事が分かった。
「目が、覚めたかい?」
その暗褐色の眸と黄橡色の髪を持つ彼が誰だったか、思い出すのに僕は一刻の時間を費やした。 彼は寝台に腰を下ろしたままの姿勢で、僕を覗き込むために傾けていた上半身を起こし、 目覚しをとめた。まだ鳴っていたのかと、僕は今更のように思いながらそんな彼の行動を見ていた。
「今日は僕の仕事が休みだから、何処かへ出かけよう。天気もいい事だしね」
僕はまだ眠りに落ちてしまいそうな瞼の動きをかろうじて制御して、僕へと語りかける彼の唇ばかりを 見ていた。その唇から紡ぎ出される言葉の意味をぼんやりと考えながら、夢の中で僕に語りかけていた 誰かの声に、似ていると思った。だけどその声がどんな言葉を僕に対して語り掛けていたのか、 僕にはもうはっきりと思い出せない。
彼は僕の首と脇の下に手を差し入れ、両腕で抱えるようにして僕を抱き起こした。彼のシャツは 太陽の匂いがする。僕は彼の肩口に顔を埋めるような格好で、まるで重病人にでもなったような 扱いだ、と思った。
確かに僕は病気なのだろう。でも、それは身体のじゃない。心の、だ。彼が昨日診察で、 僕にそう言ったのだった。どうやら僕は自分の不幸の上に、胡座をかいていたわけじゃないらしい。
「自分で、できるよ」
僕は彼のからだを振りほどき、寝台の脇へ立った。その場所で、身につけていた寝巻を脱ぎ捨てる。 ズボンは元から身につけていなかった。僕は下着姿で辺りを見まわし、昨日まで身につけていたはずの 自分の服を探した。目の前に、折り畳んだ服が差し出される。
「君の服は、洗っておいたよ。今日は僕の服を着ているといい。君の新しい服を、 買い揃えなくちゃならないね」
僕は黙って、彼に差し出された服を身につけた。いったい彼はどういうつもりなのだか解らない。 僕とずっと暮らすつもりだなんて、本気で言っているのだろうか。夜遅くあてもなく街を彷徨っていた僕 を連れ帰り、精神科の医者だという彼は僕の話を聞きたがった。あの時の僕はかなり支離滅裂で、 どんなことを話したのかよく思い出せない。
帰る家がないわけじゃないんだ。ただ撲は帰りたくなかった。昨日も大喧嘩をした後で、 殴られた頬の跡が痛かった。だから彼が僕のことを病気なんだと言った時、家に帰る必要はないずっと 此処にいればいいんだと言った時、外には雨が降っていたし、もうかなり遅い時間だったし、 それに何よりとても疲れていたから、僕は彼の家に泊まった。
僕と彼は家を出て、たくさんの店が建ち並ぶ繁華街へとやってきた。通りの途中で彼が少しここで 待っててと言い置いて、走って行った。
たくさん人が通っている。しばらくぼんやりと突っ立っていた僕に見知らぬ女が肩をぶつけた。
「痛ぇな!!邪魔なんだよ!!」
女が僕のからだを押し、僕は地面に尻餅をついた。通りすがりの人間たちが僕を見ている。 女が何か暴言を吐き捨て、周りでくすくすと笑い声が聞こえた。女が去って誰もが僕を無視して 通り過ぎるようになっても、僕はそのまま動けなかった。
此処はイヤダ。人がたくさんいて怖い。こんなにたくさん人はいるのに、僕を知っている人は 1人もいない。僕が泣いていても、手を差し伸べてくれる人は1人もいない。はやくこの場所から離れたい。
僕は人込みの中で彼を捜した。この見知らぬ人々の集団の中で僕を知っている唯一の人間。 僕が知っている唯一の人間。だけど、僕はその時、彼の名前が何というのか、知らない事に気付いた。 そもそも彼は何処に行ったんだろう。行く先も告げず、僕をこんな所に1人残して。
僕は彼がもう戻ってこないのではと想像して、震えだしそうな身体をぎゅっと抱きしめた。 その時後ろから肩を掴まれ、ふわりと抱き起こされた。僕は不覚にも涙が出そうになった。 手に食べ物の包みを持った彼がそこにいた。
「ごめんね、悟君。淋しい思いをさせてしまったんだね。人が、いない所へ行こう」
僕がいつ、彼に僕の名前を言ったのか、僕は覚えていなかった。だけど僕はそんな事より、 僕の名前を誰かが呼ぶのはとても久しぶりな気がして、少し居心地が悪かった。
「あなたの名前、何て言うの?」
彼は少し不思議そうに僕を見て、そして笑った。
「氷室、玲一。今度はちゃんと覚えておいてくれるかい?」
彼はどうやら僕に1度名前を言ったらしい。僕はその事を覚えていなかったけれど、もう忘れないだろう とその時何故かそう思えた。
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