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クリエイター名 |
高槻ひかる |
シアワセノアト。
シアワセノアト。
「だからね、もう本当に嫌になっちゃって……」 薄暗いダイニングキッチンで、彼女は話し相手に延々と溜息と愚痴をこぼしながら、テーブルにいくつも並ぶ汚れた缶ビールを抱き寄せた。 「もう、なんでこの人こんなに分かってくれないかなぁって……ありえなくない?」 だが、せっかく持ち上げた缶は空で、仕方なく今度は煙草を求める。 けれどいくら探ってみても何もなくて、伸ばした手はまたしても行き場を失ってしまった。 そういえば禁煙してたんだと思い出してはまた小さく溜息をつく。そして、軽い苛立ちとともに鈍く疼く手首の痛みに眉を顰めた。 「あいにくPEACEしか持っていないんだが……吸うか?」 指先にほんの僅かシミのある白手袋、それに包まれた手がシガレットケースを開いて差し出してくれた。 「あら、ありがと」 見上げた先に座るのは、鳶色の優しい眼差しを向けてくれる黒スーツをまとう男だ。 ついさっきまで、彼は自分にとって『たんなる行きつけのカフェの店主』でしかなかった。 でも、今は違う。 「探偵さん、両切なんて吸うのね。実は結構ヘビースモーカー?」 「最近は控えるようにしてるけどな。以前は一日四箱空けていたんだが、半分以下に減らした」 「それでもこれじゃ吸い過ぎよ。でも……しかたないかもね」 遠慮なくそこから一本抜き取ると、彼が差し出してくれたZIPPOで火を灯す。 一瞬鋭い痛みが走ったけれど、今はソレが必要だった。 「私も結構吸ってたの……貴方よりうんと軽いヤツだけど、二箱くらい。でもアイツが辞めろって言ったからさ……私ったらアイツのためにホントいろいろやったわ……」 ZIPPOとシガレットケースを内ポケットにしまう優雅な動きをつい目で追いながら、思い切り肺まで吸い込む。 そして、溜息交じりに吐き出された紫煙は、独特の香りを伴ってふぅっと視界を白く染めた。 「……アイツ、私に好きって言ったのよ? キスしてくれて、抱き締めて、大好きって言ってくれた。愛してるって。一生離さないって。なのにさ、これだもの……」 夢を見たのだ。 彼と幸せになる夢。 なのに、それはもう未来の選択肢には含まれない。 彼との約束は『遠い日の思い出』になってしまうのだ。 「さすがにちょっとソレって裏切りじゃないのって思ったわ……ね、探偵さんも、そう思わない?」 「ああ、そうだな……まあ、少々身につまされるところもあるんだが……」 「じゃあ、貴方も気をつけなくちゃ……だって、ホントに許せないもの」 本当に、どうしてもどうしても許せなかった。 前日まではいつも通り当たり前に一緒にいたのに、なにも言わず、いきなり自分の前から消えたことがどうしても許せなかった。 せめて別れの言葉くらい、残してくれたっていいのに。 「だから、アイツへのあてつけのつもりだったんだけど……」 あんまり賢い手段じゃなかったみたい。 自嘲気味にそう呟いて、数口吸っただけの煙草を、ビールの空き缶に押し付けた。 ジュッと、小さく音がする。 久しぶりの煙草は軽い眩暈を伴って。 心地よい酩酊感に、僅かの間、身を委ねた。 「あ……そういえば、ねえ? どうしてここに来てくれたの? どうしてここが分かったの? 誰も知らないはずなのに、どうして? こんなところにまで出張サービスしてくれるってことは、探偵さんの噂が本当だったってことかしら?」 「とりあえず、守秘義務と企業秘密ってヤツでどれひとつ答えることは出来ないんだが……噂?」 「あら、知らないの? 探偵さん、当人なのに」 黒衣の青年に囁かれるひとつの噂。 店主が淹れてくれる極上のコーヒーと、手作りケーキが絶品のカフェ『GUEST ROOM』――そこで、メニュー表の一番下にあるものを注文すると、 「それが例えこの世ならざるものが関わる依頼でも、必ず引き受けてくれて解決してくれるっていうの……私は彼から聞いたわ」 「ずいぶんとおかしな噂がたっているんだな。オレはごく平凡な探偵事務所を構える善良な一般市民ってだけなんだが」 肩をすくめて不本意そうに告げる彼の口調がおかしくて、 「自分で善良って言う人も珍しいわね」 ようやく唇が、僅かに笑みのカタチを浮かべる。 「話、聞いてくれて有難う。なんだかすっきりしちゃった。多分、もう……ちゃんとヒトリで眠れそう……探偵さんにも、アイツにも、もう迷惑かけないで済むと思う」 「そうか。それはよかった……」 静かな声と一緒に注がれる、縋りつきたくなるような温かい眼差しに、何故か一瞬『彼』が重なる。 「安らかな眠りが、今のアンタには必要だ。何もかもを忘れて、幸せな夢を見て欲しいと……それが向こうの希望だからな」 労わるような優しい声に包まれて、泣きたくなる。 堪えていたものが、堰を切ってしまいそうになる。 「ねえ……ねえ、貴方の言うその依頼人って……」 顔を上げ、 「……ん、いいわ……聞かない……」 頭を振って、その考えを軽く払う。 「ただね……その人に伝えておいてくれる?」 まるで祈りを捧げるように両手を組んで、額を乗せ、小さく小さく呟く。 「恨んでないって。お願い。私の声、届かないから……」 「……了解……任せてくれ」 「あとね……あと……あと、もういっこ……もう、大丈夫だからって……別れは辛かったけど……きっと、大丈夫だからって……忘れることは出来ないけど……でも、大丈夫だからって……伝えて……」 白いサマードレスを纏った彼女は、そうして、左腕を抱えるようにしてゆっくりと目蓋を閉じた。 深い眠りにその身を委ねる為に。 遠い昔の幸福に、せめて夢の中でだけでも浸っていられるように。 「お願い……お願いよ、探偵さん……」 「ああ、分かった。必ず伝えるから……」 「うん……有難う……じゃあ、おやすみなさい……」 「おやすみ、良い夢を……」 最後まで懸命にこらえていた彼女の『涙』を見ないように背を向けて、探偵は拭き取れなかった赤黒い沁みが残るキッチンを後にする。 だが、締め切られたこの部屋を出る瞬間に、彼は足を止めた。 「なあ、聞こえるか?」 フローリングの床に視線を落とし、ドアノブを握ったまま問いを発する。それは彼女へ向けたものではなく。 「彼女はアンタを許すって言ったんだ……恨んでいないからと。そして、大丈夫だと……」 部屋の隅で、先程からずっと怯えたように蹲っていた影がゆらりと立ち上がった。 ソレを視界の端に捉えながら、探偵はゆっくりと深呼吸を繰り返し、そして、極力感情を抑えた低い声で言葉を紡いでいく。 「もう二度とあんな真似はしないだろう……だから」 カフェの扉を押し開き、誰もいない店内でメニュー表一番下のハーブティを頼んだ依頼人の想いは、確かに彼女に伝わったはずだ。 そして、自分は、ちゃんと間に合った。 「だから……安心してアンタも眠ってくれ……」 願いに近い言葉。 ようやく、ソレが届いたのか。 肌に突き刺さるフロントガラスの破片をキラキラと反射させながら、影――『彼』は、ゆっくりと頭を下げた。 彼の立つ空間が不意に頼りなげに揺らいで歪み、そして。
アリガトウ……アイツヲ、タスケテクレテ、アリガトウ……
切ないまでの想いを残して、彼女をひとり置き去りにしてしまった恋人は跡形もなく消失した。 今度こそ、本当に、この世界から。 それを確認すると、 「……早く、帰らねえと……」 小刻みの震えが止まらない手で扉を押し開き、廊下を経て、玄関から先へ。 やや蒼ざめた顔で、アパートの前でなまぬるい夜気を思い切り吸い込んだ。 そして、鳥肌の立つ肌をスーツの上から撫でさすり、先ほど彼女に勧めた煙草を今度は自分のために取り出す。 「金輪際、幽霊の依頼なんて受けねぇ……」 叶うはずもなければ達成できるはずもない願いと決意を無駄に口にして、探偵は紫煙を燻らせながら真夜中の現実世界へと足を踏み出した。
END
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