t-onとは こんにちは、guestさん ログイン  
 
総合TOP | ユーザー登録 | Myページ | 課金 | 企業情報

 
 
クリエイター名  吟遊詩人ウィッチ
コメント  皆様、お久しぶりです。吟遊詩人ウィッチです。OMCライター業務に復帰致しました
2009/10/20
サンプル フェノミナン

 アイスクリームが溶けおちる速度よりも早く歩くつもりで、蝉時雨が頭上を降り注ぐ勾配を上っていくと、まだ一度も入ったことのない店があった。なんだろうと物珍しさ半分、足を止めると、壁面に刻まれた木目模様が放つミルク色や、ニスのつややかでやわらかい光の粒が反射してきて、思わず目を細める。熱さと詰まった息のせいか、狭まった視界の向こうで、ガラス張りのショーウィンドウが水面のようにきらきらと輝いていて、水玉の帽子を被ったからくりの道化師がこんにちは、と慇懃にお辞儀するところだった。
 奥の方では古めかしいグランドファザーロックが置かれ、中の振り子は蒸し返るような夏の時間をゆっくりと刻んでいた。どこか古めかしい情緒に目を奪われてしまい、透明ガラスの向こうに氾がる時計たちをぼんやりと眺める。
 次第にショーウィンドウ越しにちくちくと歯車が刻む音がせめぎあい、それぞれの時計の針はお互いの呼吸に合わせるように同じリズム、同じ間隔で文字盤の時間を刻もうと音を立てる。そればかりではなく、振り子や仕掛けに連動した人形の動きなどが全て規則正しく動こうとする。そうやって見とれていると歯車の噛み合う音でいっぱいになり、刺すような夏の陽射しも手伝ってか、視界がミルク色のベールをかぶせたように滲み、軽い目眩に襲われる。
 息を整えてもう一度、ショーウィンドウを覗き込もうとするが、二重写しになった向こうで、熱い陽射しを受けたアスファルトを歩く、日傘を差した女性と、薄茶色の飼い犬が散歩する姿が浮かび上がり、舌を垂らしたブルドッグが、陽炎の沸き立つ透明なブルーの空に湿った鼻を持ち上げるものだから、そのしわくちゃな、いかにも気怠い表情に目が誘われてしまい、同じ空を振り返ると、入道雲は熱にやられてしまったバターみたいにじっとしていて動かず、ただ宙で寝そべったまま都会の街並みを見下ろしている。
 遠くでは銀色を反射させるビル群がそそり立ち、その隙間を行き交うトラックのもうもうと吐き出される排気や、夏休みに入っても働き続けるホワイトシャツの人達が放つ、つんとした臭いが下町の方まで漂ってくる気がして、神無城・衣緒(かんなぎ・いお)は気後れする。まだ始まったばかりなのに夏休みがもう終わってしまう、そんな訳の分からない錯覚が、急に襲ってくる。
 深々と溜息を吐く。


退廃した世界より伝達

 ベッド際のテレビに砂嵐が映っている。薄暗いグレーと白の、白光が、ときおりふわりとざらついた無機質な点描を作り、薄い陰影のある透明の泡を孕んだ粒状の、岸に打ち上げられかけたさざ波のようにうねり、重く閉ざされたカーテンが蠕動する蛞蝓のように形を変えていく。ベッドの上には一人の男が、頭を抱えるようにして、スチールのマガジンラックがある横のベッドに腰掛けている。マガジンラックには、音楽雑誌、経済誌、ファッション誌などが並んでいるが、読みかけの雑誌などはいっさいなく、どの家具もまるで彼と彼の存在と同位置、あるいは彼自身の影と同化するように、頭を擡げ、固く口を閉ざしたまま蹲っている。たとえばビンテージ物のジャンパーやアメリカンフットボールのヘルメット、ゴリラを象った置物、並べられた葉巻、空気清浄機、一眼レフのデジタルカメラ、OA機器、こういった物の数々はある一定の経済力と職業的な特色を兼ね備え、一つの物語を語る上では些末な、あるいは彼の内面を物語る事物として配置された一種の予備的なファクタであるかもしれない。けれども、こういったファクタのひとつひとつは彼との関連性を全く持たないかもしれない。そういった対をなす無限の想像力は常に、僕たちの傍らで、鎧を着た兵士のように槍を携え、彼という人柄を一切の想像力から排除しようと、待ち構える。想像力と事物の解離は、彼という人間そのものを語ることさえ許さないある種の深いプロテクトでもあり、ブラックボックスでもあり得る。
 彼は僕なのか、あるいは他の誰なのか、まだ分からない。けれども、ただ一つ言えること、すなわち彼は今、社会から断絶されている。それはあらゆる意味で、孤独な人間のひとりとして堅牢な城の、薄暗い地下牢に閉じこめられている囚人と同じかもしれない。
 彼はいま大きく息を吸い、それから腕時計を見る。あるいは僕も、そうして、現在、おかれている立場を確認するために時間を確認するだろうか。そう、今は午前3時48分だ。寝るには遅すぎるし、かといって、朝にはまだ至っていない。夜という原始的な獣は、来るべき朝の理性へとゆるやかに覚醒していくのだ。その隘路に立たされた彼は、今や足首に括り付けられた深い闇の鎖を引きちぎり、来るべき時間へ向かって、つま先立ちをして、短距離走のランナーのように、刻一刻と迫ってくる時間を内なる鼓動と共鳴させ、今か今かと待ち構え、走ろうとする。ゆっくりと身を前屈みにして、立ち上がり、鍵も財布も取らずに玄関へと向かう。立ち去る瞬間、彼は拳を握りしめ、ノックするような動作をする。それが彼の何らかの意志を表すものなのか、今はまだ知る必要がない。彼の足音とテレビの砂嵐だけが、異質な世界に取り残された残滓のようにそこに立ち止まり、誰もいなくなった部屋の中を映し出している。
 3時50分。電話の電子ベルと男の残していった携帯電話が同時に鳴る。サイドテーブルの卓上に置かれた電話機が留守番録音に切り替わる。録音に切り替わった瞬間、遮断機の轟音と風の空気がスピーカーの電子音に無理矢理変換され、けたたましい物音に変わる。相手側はしばらく何も話す気配はない。あるいは遮断機の音が消えるまで待っていたのかも知れない。45秒ほど立ったところで男の声で「聞こえているか」と、そこにいるべき人間に問いかける。しかし、そこにいるのは砂嵐の音と、時計が音を刻む音だけだ。ひどく興奮したような、荒い鼻息が無機質なデジタルテープに記録されていく。聞こえているか、聞こえているか、と二度繰り返し、政治的大量殺戮を犯した死刑囚が、息絶え絶えになりながらも、その正当性を主張し、歴史的権威を自らのもとへと還元する儀式が、今ここで阻止され、あるいは、昇華されようとでもいうかのように。聞こえているか、そう何度も、全世界の人間に向けて、電話からの主は一つの終わりを宣告する。
「君は何ともつかない物事から逃げだした。これは明白な事実である。私はいつだって君を見ている。君の傍にいる。逃げるのか? 大いに逃げるがいい。君の家族のことも、知人のことも、よく通う書店の位置や君がどういった本を読むのか、ありとあらゆる情報は私たちの手の内にある。私は今ここで君を見ているぞ」
 そこでテープは終わる。砂嵐が再び我が領土を取り戻し、静寂の王国が戻ってくる。

ホームページ
 
 
©CrowdGate Co.,Ltd All Rights Reserved.
 
| 総合TOP | サイトマップ | プライバシーポリシー | 規約